雨引観音の紫陽花、今見頃です。
「紫陽花」という文字が好き。
そんな理由で見に行くで良いと思うんです。
キッカケなんてなんでもOKだと思うんです。
その時に自分に生まれた嘘偽りのない「綺麗だ」という感動がたまに必要なんです。
こんな曲をお気に入りのイヤホンと手に馴染んだカメラ、そして犬がいればいい。
週末に知り合いの女性作家さんに「書けなくなった」と連絡があって、お酒を飲みながら話していたのですが、誰でもありますよね。続けてきたものが突然出来なくなること。
突然にあんなに夢中に吐き出せたものが吐き出せなくなる。
私にも経験があって、他人事とは思えずにLINEで連絡があった時にすっ飛んで駆けつけたのですが、私事の経験談で話したんです(酔っ払ってたので伝わっているか不安・・・)。
評価されて書き始めて
褒められてもっと褒められたくて
努力せずとも吐き出せる能力があって
どんどん書いて書いて書いて書きまくって
評価されなくて書けなくなり
切磋琢磨してきた戦友が評価されて
日々の生活に追われながらどんどん違うものに埋め尽くされ
突然に書けなくなる。
当たり前なんですよ。
名言といいますか、なにかで読んだと思うのですが
「飯を喰わずにウンピが出せるかっ!」なんですよ。
ん?これで伝わりますか?駄目かー?
創作物なぞ、所詮ウンピーなんですよ。
自分の全力でひねり出したウンピを他人に評価してもらってるだけなんです。
もちろん恥ずかしいんです。
自信をもって出せるもんじゃないんです。
そりゃー自分のウンピっすからねw
誰でもそうです。
他人に見せても恥ずかしくないウンピをひねり出せる人って著名な方でもナカナカいないと思うんです。
そんな「俺のウンピを見ろ」みたいな変人しか居ないんですよ創作家なんて。
そして良質の排泄物をひねり出すにはインプットが必要なんです。
要は飯です。
なにかに感動し、なにかに影響を受け、そこから脳内に「嘘のないもの」が発生した時に吐き出せると思うんです。
出すことに特化するとウンピがひねり出せなくなるのは当たり前なんですよ。
そして出せなくなると「嘘」を重ね始めます。
他人の感情をあたかも自分のことのように捉える「嘘」
脳内にせっかく生まれたドロドロしたものを世間のニーズに合わせる「嘘」
嘘に嘘を重ねて自分が嘘なのか嘘じゃないのか判断出来なくなっての「嘘」
嘘というのは「事実」とは異なります。
己が影響を受けて己の脳味噌が反応して、そこに発生したものは「嘘」では無いんです。
創作=嘘だろ?
ち、違うんです。私がひねり出したウンピには嘘偽りなく私から発生した本当なんです。
物理法則とか世界秩序とか人種とかそんなものを超越した「本当」なんです。
そう言い切れる上出来のウンピをひねり出せるには「食事」が必要。
なにげないもので良いんです。
紫陽花が綺麗だなぁだけでいいんです。
それだけで、そんな小さいことでウンピが止まらなくなるぐらい出まくる時があるんです。
紫陽花の散り際は潔いものではありません。
いつまでも「咲いてやる!」みたいに粘ります。
変色してもボロボロになってもその場にとどまります。
往生際が悪い。そんなイメージがあります。
でもキレイな時に散っていく花と紫陽花のように老いても咲こうとする花
相対するだけでもなにかウンピが出そうな気がしません?
私も物書きを目指していた時期が一瞬だけあって、私はウンピを評価されること自体が苦手というか、初っ端に自信をもってひねり出したウンピが全否定された経緯があって挫折したのです。
ただ、まだ好きでカキカキしていたりするのは「一人の人を私の文章で号泣させた」ことがキッカケです。
抽象的ではありますが、一人の人の「君が生存し存在するのは正しい!」ということを全力で書きました。
背景はその方が読まれると傷つく可能性があるので書きません。
その方に全力で書きました。
生まれてきたことを「全肯定」する文章を書きました。
生きて私に出会ったことを「全肯定」する文章を書きました。
たまに合うとその方に言われます。
「落ち込んだ時、たまに読んで号泣している」
あぁ私はこの方に文章を書くために生存してきたのかも?と思います。
万人にウンピを投げつけることは出来ませんでしたが
一人の人間を救えるウンピを振りかぶって全力で投げつけられた。
それだけでも書いている意義があると思えた。
誰かに投げつけるウンピをひねり出すのも、書けなくなった時に吐き出すキッカケかも?
そんな偉そうなことを酔っ払って話したのですが、伝わっているのか・・・。
2日経ちますが不安です。。。